| ふるさと散歩(40) この記事はプチベル新聞第62号に掲載したものです。 |
琴平山古墳
国道一九〇号線を古殿の多口田で西に折れて、昭和九年に開通した旧、古殿−王子道路を、西の農免道路に向って王子地区内を進む途中、上野朝晴さん宅付近から登り坂にさしかゝる。その登り坂の直ぐ西側に古くから琴平山と呼ばれている広さ約〇.七ヘクタールの雑木の茂った小高い丘がある。この琴平山の一角に昔から、石棺らしき物があると云う事で、昭和二九年四月に行われた王子経塚の発掘調査に併せて調査が行われた。その結果、子供を埋葬したものと思われる二基の小形箱式石棺が確認された。この二つの石棺は東西に約二・五メートル離れており、東側の石棺は長さ五二センチ、幅四八センチ、側壁は左右各二枚の石を並立させ、前壁、後壁は各一枚の石が立てられている。又、西側の石棺は、長さ九五センチ、前壁幅三〇センチ、後壁幅三六センチで、共に各一枚の石を立て、側壁は左右各四枚の石を立てている。これらの石棺は共に底の敷石は無く、土を掘って壁面の石を立てて造ったもので、小量の朱砂らしき物があった以外は、人骨や副葬品も無く、湿気のある土のため、人骨等は腐蝕したものと考えられる。猶、この石棺は構造から見て古墳時代前期頃の物と推定されている。さて、この古墳のある琴平山には、東南側の上野朝晴さん宅と前山隆利さん宅とが隣接する間の小路から行く道筋と、琴平山の西側にある中村勝人(前、宇部市長)さん宅の南側から行く道筋がある。中村さん宅の南側から行くと、直ぐに小高い崖があり、その崖の上に素隣橋由縁の旅僧素隣の墓と云われる花筒が備えられた小さな石塚がある。そこから東へ四〇メートル余り雑木林の中を行くと、宇部市教育委員会の設置による琴平山古墳の説明板がある。その側の地面に緑泥片磨岩と思われる所々青緑色をした石で造られた二基の古墳(石棺)を見ることが出来る。古墳から更に東へ一〇メートルばかり進むと、広さ三〇メートル余りの平地が開ける。その一角に白松新四国八十八ヶ所第七十八番札所の大師堂と、その近くに金比羅様と云われる花崗岩製の高さ七〇センチ程の扉付の祠がある。祠には刻字が無い為に明確な事は判らないが、形式から見て江戸時代中頃に造られたものと思われる。この森林一帯の琴平山の名称は、この金比羅様に由縁があると言われている。猶、この金比羅様の祭日は旧暦六月八日とされ、以前は祭日には附近の人々の参詣も多かったが時代と共に薄れ、現在は中村勝人さん宅と前山隆利さん宅が一年交代で、旧暦六月八日に古尾八幡宮にて金比羅様の祭祀をされているとのことである。又、七十八番札所の大師堂は中村さんが管理されており、お大師様の縁日には、中村さんによる参詣者に対するお接待がなされている。猶、戦前頃までは此の大師堂前の広場で、王子の人達による盆踊りが行われていたとのことである。
以上

琴平山古墳の古墳(石棺) 大師堂と金比羅様の祠
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| ふるさと散歩(39) この記事はプチベル新聞第61号に掲載したものです。 |
=問罪使送還船を手配した中屋國松(なかやくにまつ)の墓=
法秀様のお堂から北西へ約三十メートル離れた丸尾の墓地の一角に、高さ一・二メートル程の三段重ねの墓石があり、正面には「釋國信士.妙諦信女」。側面には「末次國松夫婦.明治十九年二月十三日.明治廿一年五月十日」と刻まれている。この墓は夫婦墓だが、現、丸尾の末次敏男さんの祖先の墓の一つであり、この末次國松と云う人は、文化年間から明治の初め頃まで丸尾の港で、干鰯、糠等の肥料、米、辛子、平子等の食料、及び木材等を手広く取扱っていた廻船問屋「中屋」の一族で、幕末から明治十九年まで、変革期を生きた人である。この末次國松も明治以前は末次姓は用いず、屋号の中屋を用いて、「中屋國松」と名乗り、近郷の人々から、屋号と名前の下の字を略して「中國さあ」と呼ばれていた。さあは「さんや、君」の意味である。さて、この中屋國松は、文久三年(一八六三)八月二七日の夜明け前、丸尾の港番所から緊急の呼び出しを受け、幕府の役人と云う五人の侍を内密に、直ちに船で芸州浅野藩まで送り届ける様に命ぜられたのであった。國松は、中屋の持ち船から百石船(十五トンの帆船)を選び、船頭と舵子の三人を乗り組ませ、その幕府の侍五人を乗せて、夜の明けぬうちに丸尾港を出帆させたのだった。ところが、早くても帰港は二〜三日後になる筈の船が、その日の午後には船頭達三人だけで帰って来たのだった。國松が不審に思い理由を聞くと、船が三田尻の中の関にかかった時、後を追って来た二挺櫓の漁船から、覆面をした数人の壮漢がこちらの船に飛び乗って、幕府の侍五人を次々と斬り殺し、死体を海中に投げ込んで再び漁船に乗って去って行ったと言う。驚いた國松は、この事を直ぐに丸尾の港番所を通して小郡勘場へ報告したが、これについては、その後何日経っても勘場からは何の音沙汰も無かった。この事件は、文久三年五月一〇日から六月五日にかけて、毛利藩が関門海峡を通過する外国船を砲撃し、又、小倉藩領の田の浦に故なく砲台を築いたため、内治、外交上、放置出来ぬとして、幕府から毛利藩に対し、問罪使として中根市之丞以下、鈴木八五郎達八名を派遣したのだった。中根達は七月二四日に幕府の軍艦朝陽丸で下関に入港したが、奇兵隊に朝陽丸を奪われ、やっとの事で、毛利藩家老の國司信濃守の指示による藩の役人に護衛されて小郡に移り、問罪状に対する毛利藩の返事を待つうちに、宿泊所に於て奇兵隊らしい覆面の刺客に襲われ、鈴木八五郎達三人が斬殺されてしまった。驚いた藩の役人達は、残った中根市之丞達五人を丸尾港から船を仕立て、芸州藩を通して江戸へ送り届けようとしたのだが、八月二七日、前述の様に、中の関沖で再び刺客に襲われて、幕府からの問罪使全員、殺害されてしまったのである。
以上
幕府の問罪使送還船を手配した 中屋國松の墓
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| ふるさと散歩(38) この記事はプチベル新聞第60号に掲載したものです。 |
王子の茶店跡と一本松跡
王子地区の南西側を流れる宮脇川に架かる素隣橋を渡り、王子権現社の一の鳥居の所に至る旧道を先日、梅雨の晴れ間をみて久しぶりに辿ってみた。この道は鎌倉時代初期の昔から昭和初年頃まで、阿知須方面から北原や磯地を経て上の原を通り、船木や宇部方面に向かう主要な往還(道)だったと云われている。素隣橋から南に向かって百メートル余り行くと右手の丘の上に稲荷大明神、幸神、庚申塔、庚申と、各々刻まれた四基の石塔があり、その手前下の道の右側に、現在は畑となっているが一畝余りの平地がある。こゝには明治の初め頃から昭和初年頃まで、この往還を往来する人達が立ち寄る藁葺き平屋、広さ十坪程の茶店があったと云われている。昭和の初め頃、この茶店では茶菓子として、饅頭(現、小郡饅頭に似ている)、豆平(飴で固めた炒り大豆)、げんこつ(炒り豆と小麦粉に水と砂糖を加えて加熱した小さな拳状のカルメラ)や飴玉等を売っていたとの事である。この茶店跡から更に百メートル余り南に行き、右手に七基の石地蔵の立ち並ぶ墓地の手前を左側に折れて森の中の小路を辿る。この小路は昔の往還であるが現在は通る人も無く、路の途中には所々に雑草や雑木が生い茂り行手を阻んでいる。森の中を更に西に向かって百メートル余り進むと左手(西側)の一段高い所の木立の間に『史跡王子一本松、古尾八幡宮、王子自治会、平成二年』と刻まれた高さ一・九メートル程の石碑が立っている。この石碑は、昔からこの場所に大きな一本の松があり、人々はその松を王子の一本松と呼んでこの往還の道標とし、又、併せてこの場所附近を一本松と呼称していたのを顕彰して平成二年三月に建てられた物である。さて、この場所「一本松」については、天平勝宝三年(七五一)に古尾の地に建設された古尾八幡宮を、天福元年(一二三二)に南方八幡宮をと北方八幡宮に分離した折、その神宝を分けた場所だと伝えられている。又、近代、王子の一本松と呼ばれていた松は、高さは二十メートル余り、幹の周囲は四・五メートル、根元から一の枝まで三メートル、枝張り面積が約一六五平方メートルあったと云われる。しかし、この松は昭和二十七〜八年頃から幹の半分以上が白蟻の被害を受け、昭和三十一年九月の台風で枯死したため、同年十月一日に伐採された。調査によれば樹齢三百五十年余りで、天福元年当時の王子の一本松に対して、この松は二代目だと推定されている。その後三代目と称された松の木も平成二年に枯死し、現在ではその跡地付近に、平成二年三月三十日に植樹された数本の松が成長しつつある。
以上
写真:王子の茶店跡 史跡王子一本松の石碑
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| ふるさと散歩(37) この記事はプチベル新聞第59号に掲載したものです。 |
丸尾崎番所跡
丸尾の南端にある弘済寺から北西に向って、丸尾の人達が古くから「往還」と呼んでいる道を百メートル余り行くと、部坂恒夫さん宅を過ぎて小林亀一さん宅に至る所で北東に分かれる道がある。その道を三十メートル余り行った左側、広さ約三百平方メートル程の畠の一角に「番所の井戸」と呼ばれる井戸がある。その井戸には、一辺の長さ百十センチ、高さ五十センチ、厚さ十五センチ程の花崗岩の板で四方を囲った井桁があり、その一面に「天保七年申十二月、河内勇左衛門在役中、調主、部坂市之丞」と刻んである。これは、小郡勘場(代官所)から派遣された丸尾崎番所役人の河内勇左衛門が在任中の天保七年(一八三七)に、部坂市之丞によって設けられたと云う事であろう。猶、この部坂市之丞とは、その頃磯地にあった部坂家の二代目市之丞で、丸尾港の灯台補修や磯地の疫神社堂及び長安寺の再建、磯地に蔵田塾(私塾)を開かせる等、当時の岐波村の為に尽くした人である。一方、この井桁を造った頃、こゝにあった番所の建物については、風土注進案に梁行三間、桁行五間半の茅葺き屋根が一棟と記されており、又、海岸(越荷会所跡付近)には、梁行二間半、桁行七間の船蔵があったと伝えられている。さて、この丸尾崎番所は、延宝八年(一六八〇)に丸尾港が開かれた時、それまで岐波浦にあった藩の高札場を丸尾に移し、それに併せて設けられたと云われ、その役目は、寄港する一般商船の検問やその運上銀の徴収は勿論、幕府の役人や諸大名の船が出入りの場合は、その水先案内、食料や飲料水、薪等の提供、更に必要に応じて船荷の調達、船荷の積み降しや清掃作業人夫の手配、乗船している役人達の宿泊や休憩等の接待も背負わされていた。従って毎日、二〜三人の番所役人が詰めており、幕府船や藩船が入港した時は、小郡勘場の指導のもとに、庄屋、浦年寄等の村役人と諮って、丸尾近郷の住民を始め、状況に応じて当時の岐波村や井関村の百姓の中から必要な人数を動員し、それぞれの作業に当らせていた。この様に丸尾崎番所は丸尾港が開かれてから明治維新までの約百九十年間、その役目を果たしたが、現在、その跡地に残る物としては「番所の井戸」だけである。しかし、天保年間頃の番所の敷地広さは、現 部坂恒夫さん宅の西側、小林亀一さん宅付近一帯の約一千平方メートルで、南側の、故 小林松雄さん宅辺りに番所の裏門があり、そこから五十メートル程離れた北東側の一角(部坂恒夫さん宅の北西側付近)に表門があったと伝えられる。即ち、この丸尾崎番所の敷地は、東西に約二十メートル、南北に約五十メートル程の矩形だった事が伺われ、その中の一角に番所の建物があったと思われる。
完

写真:丸尾崎番所跡に残る番所の井戸
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| ふるさと散歩(36) この記事はプチベル新聞第58号に掲載したものです。 |
前田の天神様
国道一九〇号線を前田の児童公園の所で西側へ分れ、前田地区の家並みの中の道を百メートルばかり行くと藤中孝行さん宅の所に至る。そこから北に向ってミスターマックスへ続く道を進むと右側に、前、自治連会長の中村中さん、更に池本畳店の宅を過ぎた所、即ち三藤辰夫さんの屋敷の一角に、天神様と呼ばれている花崗岩製の祠と小形の手洗鉢がある。祠は二段重ねの台石の上に正面を北東に向けて安置されており、その高さは地面から約一・四メートル程で、祠の正面は両開きの扉があり、祠内正面には「天幡宮」と刻んである。又、祠の外側左面には文化十四丑十月朔日の刻字があり、左面には、世話人、和泉屋弥吉と刻んである。この祠は今から一八六年前の文化十四年に、何かの商業(ハゼロウ櫨蝋関係か?)に係わっていた和泉屋弥吉と言う人の世話で地元の人達によって造られた物と思われる。猶、天神様の社等は一般には天満宮と書くが、この祠は天幡宮と刻まれている。しかし、これは八幡宮の幡を、満と同意語として刻字したものと思われる。さて、この祠等、天神様は以前、前田地区の北側、現在のミスターマックスの敷地となっている一角に祀られていたと云われ、そのあたりの本来の地名は大石後だが、神様堂の呼び名が残っている。
このミスターマックス等の敷地一帯は江戸時代は御立山(藩有林)であり、江戸時代中期から幕末にかけて毛利藩の四白政策の一つである櫨蝋を作るため、櫨の木を多く植えたので「ハゼ山」とも呼ばれていた。明治維新後も暫くは東岐波村の産業の一つとして、蝋燭や鬢付油の原料となる櫨の実の生産のため、この山では多くの人達が働いた。従って、この前田の天神様は単なる学問の神では無く、櫨の木山で働く人達や周辺に住む人々の生活の守護神としてこの地に祀れたのであった。さて、この天神様も時代の趨勢と共に、明治四十三年に古尾八幡宮の合祀され、天幡宮祠や手洗鉢はその場に残されたまゝ廃社となった。その後、昭和四十四年に至ってこの天神様の跡地は日本アーバーエーカー社の進出開発を機に昔の姿を消し、残っていた祠と手洗鉢は現在の場所に移設されたのである。猶、現在、古尾八幡宮の北側の参道入口に、前田の天神様から移設されたと云われる、高さ約二・六メートル程の花崗岩製の鳥居が立っている。その額束には、「天満宮」と思える刻字があり、右側の柱には「奉寄進大石區氏子中」と刻まれ、左側石柱には「明治三十一年九月吉日」と彫れている。この鳥居も、前田の天神様が古尾八幡に合祀される以前は、前述の天満宮祠等と共に、神様堂と呼ばれる天神様旧社地に建てられていたのであろう。
完

手洗鉢 花崗岩製の鳥居
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| ふるさと散歩(35) この記事はプチベル新聞第57号に掲載したものです。 |
丸尾の法秀様
バス停「丸尾崎」の西側に在る墓地の一角に丸尾近郷の人達が法秀様と呼ぶ、広さ約一間四方、軒高二・四メートル程のコンクリート柱壁、瓦屋根のお堂がある。その中に膝の上で両手を法界定印に結び、その上に宝珠を乗せ、柔和な地蔵様を型取った高さ二十八センチ余りの花崗岩製の座像が祀られている。
この法秀様の座像は昔から、体に疣(いぼ)のできた時や、皮膚病や眼病に罹った時等、炒り豆(大豆)を供えて快癒を祈れば御利益があると言われて来た。近頃では万病にも、更に日常の悩み事にも霊験が灼かだとして近郷の人は勿論、かなり遠くからもお詣りする人が多く、御像の前は線香の煙の絶え間が無い程である。又、三十年程前から、毎月二十三日には法秀様の縁日と称して参詣する人が増え、特に近年、一月には初地蔵、五月には命日、八月には地蔵盆と称し、信奉する人達によって参詣者に対して飲物や食物等の接待等が行われ、お堂の前は一段と賑いを見せている。さて、この法秀様については、昔、東仙寺(現在の弘済寺)に寄宿していた旅僧で、薬草の知識が深く、皮膚病や眼病、腰気の病に苦しむ人々を、付近にある草木等を使って癒し、又、取り憑かれを法力で取り除き、更に、水不足に悩む丸尾人達を救う為、共同作業による井戸掘り等も熱心に奨めた人だと伝えられている。しかし、いつしか法秀様は不治の病(伝説では癩病、又は庖瘡)に罹り、その為人々を近くに寄せつけず、東仙寺のお堂の縁の下で患って、寂しくこの世を去ったと云う。丸尾の人達はこの旅僧の死を惜しみ、石像を造って墓地の一角に祀り、「ほうしゅうさま」と呼んでその徳を偲び、病気快癒を祈る様になったと伝えられている。
(注)法秀様が何処の出身で、いつ頃の人か等については旅僧であった為か、弘済寺にも文書らしき物は無く不明であった。しかし、以前、ふとした折に弘済寺の前住職の故宍戸宗淳和尚から「法秀様は、漢方医の南木春哉と云う人と交友があったとの云い伝えがある」と聞いた事があり、その後、昭和五十一年六月に、上の原の旧弘済寺跡付近の竹薮の中で南木春哉の墓碑を見つけた。墓碑の側面には「寛政十二庚申正月十九日生、嘉永七甲寅二月十九日卒」、裏面に「先生名惟孝 字百英 號春哉 別號南苑 通称敬太郎 本姓三井 當漫遊関東北陸十有八年 善醫工畫 病卒千家」と刻んであった。これにより、法秀様が南木春哉と交友関係があったとすれば、文政年間頃から嘉永年間頃にかけて、即ち今から百六十年から百八十年前頃の間に丸尾に居た人だと思われる。猶、「ほうしゅう様」は「ほうしょう様」と呼ばれていたとの伝説もある。又、法秀の文字は昭和三十一年に故あって、故宍戸宗淳和尚や、故國重義雄先生等と相談し、仮定して使用した経緯がある。

法秀様の像 法秀様のお堂
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ふるさと散歩(34) この記事はプチベル新聞第56号に掲載したものです。 |
門前の鎮守社跡
日の山の西南側の麓、門前のさやの峠(さえんとう)の入口の所から、さやの池を左に見て、東南に向って月崎への道を二百メートル余り行くと、左手の山本義弘さん宅の北側裏、即ち、日の山の麓の一角に、門前の人達が鎮守様と呼んでいる深い森がある。その森に入って見ると一面に高い雑木が繁っているが、以前は確かにお宮の境内だつた事を思わせる三畝程の平地がある。森の入口から約二十メートル余り北側奥の方に「神明社」と刻まれた額束のある高さ九十センチ、屋根幅七十センチ程のコンクリート製の祠が、花崗岩の台石の上に安置されている。神明社とは、一般に天照大神、もしくは、伊勢神宮を祀る神社の総称でもあるが、この門前の鎮守様の神明社祠は、以前からあった木造のお堂が老朽化し、更に山崩れ等もあって倒壊したため、この森の所有者の重永益治さんが昭和二十二〜三年頃、建立された物である。一方、この神明社祠の西南側七メートル程離れた所には「明治十六末三月 門前村氏子中」と刻まれた、高さ四十センチ、長さ七十センチ、幅三十センチ程の花崗岩製の手洗鉢がある。又、神明社祠の東側、約八メートル先には「日露戦役従軍記念碑」の刻字のある、高さ一・四メートル、幅五十センチ、厚さ十五センチ余りの花崗岩の碑が、高さ二十センチ程の台石の上に建てられており、その裏面には「山本房右ヱ門、山根能之進、前田吉右ヱ門、瀧野知二、松重禎助、山本鉄二郎、有富小三郎、山本伊右ヱ門、維持明治三十九年五月、門前建設」 の刻字がある。さて、この鎮守社については、防長寺社由来の中に、文化四年(一八〇七)卯四月の日付による「花園村 鎮守大明神、御殿九尺四方、社床壱畝、九月十四日御祭礼」の記述がある。但し、この所在地が花園村となっており、門前の地名が表面に出て来ないのは、当時、門前地区が、前田地区や花園地区と共に一つの小字名地区として、花園村の中に含まれていた為である。
鎮守社とは当初、佛教寺院の守護として祀られた神社で、其の後、時代の流れと共に、貴族、武士、一般庶民の守護神として、氏神、産土神、地主神等の同義語のもとに人々に崇敬される様になったのである。この門前の鎮守社も当初(天正十六年=一五八八年以前頃)は、門前にあつた大内氏の伽藍の菩提寺(現、岐波の三光寺の前身)の守護社として祀られたと思われ、その後、門前地区一般の人々の護り神として崇敬されて来たが、明治四十三年に氏神様統括の一環として、古尾八幡宮に合祀された。しかし、その後も、その跡地は、付近の人々の鎮守の森として崇敬され、現在に到っている。
完

写真:左から「日露戦役従軍記念碑」「神明社祠」「手洗鉢」
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| ふるさと散歩(33) この記事はプチベル新聞第55号に掲載したものです。 |
伝説「鑵子ころげの坂」二題
古くから在る山里の峠道や、村里の寺社近くの坂道等には、大抵一寸した伝説めいた物語等が残っている。
花園の善照寺の近く、現、正司和夫さん宅の直ぐ西側に「鑵子ころげ」と呼ばれる幅二メートル、長さ二十メートル余りの、ゆるいカーブを伴った坂道がある。この坂道には次の様な話が伝わっている。その昔、この坂道の側に、慎ましい乍ら奥床しく、風雅な茶室のある屋敷があり、そこには厚東氏に縁のある一人のお姫様と、その腰元が住んでいた。茶の湯の好きなお姫様は、時折、近所の人達を招き、又、旅僧等が立ち寄った折には、素晴らしい御手前でお茶をふるまって、それらの人々を喜ばせていた。ところが或る風の吹く夜、この屋敷に異変があり、そのお姫様と腰元は悲しい死を遂げてしまった。それから後、お姫様の茶室のあった側の坂道には、夜になると風の吹くたびに木茅の揺れる音に混って、カラン、カランと鑵子(茶の湯の釜)の転がる音が聞こえる様になり、近所の人々はいつの間にかこの坂道を「鑵子ころげの坂」(通称=鑵子ころげ)と云う様になったと伝えられている。
今一つ、丸尾の弘済寺の近く、サボテン博士の呼び名で有名な、故、伊藤芳夫さん宅の東側にも俗に「鑵子ころげ」と呼ばれている、幅一メートル、全長三十メートル余りの急な坂道がある。昔、現在の弘済寺が東仙寺と呼ばれていた頃(今より百三十年前から二百八十年余り前の間)、寺の南にある背戸の山と呼ばれる森に沢山の
豆狸が住んでいた。その中の一匹の狸が夜になると、当時、両側に灌木が鬱蒼と茂っていたこの坂道にやって来て、鑵子に化けて坂道を転がっていた。その化け方が大変上手で、まるで本物の鑵子が転がって行く様に、カラン、カラン、と金属音を立てて、夜になってこの坂道を通りかかった人達を驚かせるので、丸尾の人達がこの坂道を「鑵子ころげの坂(通称は鑵子ころげ)」と呼ぶ様になったと云われている。
丸尾の「鑵子ころげの坂」 花園の「鑵子ころげの坂」
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ふるさと散歩(32) この記事はプチベル新聞第54号に掲載したものです。 |
丸尾原の青面金剛像
丸尾から丸尾駅に向って駅道路を行くと、丸尾原東地区の一角に古原田池からの灌漑用水路と交わる所がある。そこから右手に分れて水路沿いの旧道を北西に進むと四叉路があり、その突き当りの右側に高さ六十センチ程の自然石の道標がある。その道標の右側面には「東丸尾道」、左側面には「西トコナミ、新川ミチ」、裏面には「正木、ヤナギ 心出シ」と設置者名等が彫ってある。道標の西側の道を更に北に向って三十メートル余り進むと再び東と西への分れ道となる。そこには三体の石の観音像を安置した軒高二メートル程のお堂があり、その西側屋外に凝灰岩造りの青面金剛像が祀ってある。その像本体は高さ五十三センチ、最大部幅二十七センチ、奥行き最大部十九センチ程の大きさだが、コンクリートブロック築き台の上に花崗岩台石を三段に重ねた、高さ約九十センチの台の上に安置されている。この青面金剛像は船形光背、六臂であり、像の正面左側に「天明二寅十二月八日」の刻字がある。その像の足下には邪鬼が横たわり、その下に左側から、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿が彫られている。
さて青面金剛は、元来、佛法の守護役の帝釈天の使者であり、鬼病を流行させる鬼神とも云われ、その姿は、身は青色で四臂、又は二臂、六臂に造り、目は赤くて三眼、頭髪は火の様に逆立ち、体に蛇を纏い、足下に二匹の悪鬼を踏みつけた怒りの形相を表すとされている。我が国の青面金剛は道教の説と結びつき、体内の三尸(さんし)の虫を取り除くと言う事で、平安時代より貴族の間で守庚申として崇敬され、その後、室町から江戸時代にかけて山伏や密教系の僧侶を通し、貧苦や災難の除去、延命、後生善所の守護佛として一般民衆に広まり、更に庚申信仰での守庚申として祀られる様になったと云われる。猶、神佛混淆に関連し、青面金剛が佛の守庚申であるのに対し神の守庚申として猿田彦命が祀られている。
さて、この丸尾原の青面金剛像は天明二年(一七八二)に、この付近(丸尾原畑田)の人達の守庚申、又、農耕の守護佛として建立されたと云われるが、この近くに住まわれている正木幸治さんの話では、お堂の中の三体の観音様の守護役として建てられたとの言い伝えもあるとのことである。猶、東岐波地区には庚申として、猿田彦命を祀ったものは多いが、佛式の青面金剛像は非常に珍しく現在の所、今一つ、丸尾原の桜田正明さん宅の西方、即ち、丸尾原から永ヶ久保へ向う道の直ぐ左側の雑木の繁みの中に、建立年代は判らぬが、高さ七十センチ程の花崗岩の青面金剛像があるのが判っているだけである。

丸尾原(畑田)にある道しるべ |

丸尾原(畑田)の青面金鋼像 |
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| ふるさと散歩(31) この記事はプチベル新聞第53号に掲載したものです。 |
王子権現社跡
王子の農免道路の交叉点から瀬戸原へ向かうテクノロードを百メートルばかり行くと、左手の山の下方に石の鳥居が見える。これは王子権現社の鳥居で、その山は権現山と呼ばれ、昔、斉明天皇二年、大内氏三代阿戸太子の嫡男の琳阿太子が古尾の地に御殿を建てて住んでいたが逝去したので、この山に葬送したとの伝説がある。又、この権現山の南西には低地の田圃を挟んで、御輿山と呼ぶ山があり、琳阿太子の遺体を運んで来た御輿をこの山に埋めたので、その名が付いたと云われる。
さて、この権現山の王子権現社は天平勝宝三年(七五一)に宇佐八幡宮から勧請された古尾八幡宮よりも古く、別名を賀保の庄一の宮権現と呼ばれ、祭神は天御中主尊、天照大神、素盞鳴命と云われている。この王子権現社は明治時代になってから神佛分離令により、五十鈴神社と改称したが、昔からこの神社には、日常でも参詣する人が絶えず、特に秋の九月十六日の祭りには、地元の王子近郷の人は勿論、西岐波や阿知須、井関、佐山方面からも多くの参詣者があったと云う。
明治四十三年に現在の古尾八幡宮に合祀されて後、この王子権現は廃社となったが、その跡地は現在でも、王子地区の人達による草刈り等の保存活動が続けられている。私は先日
この王子権現社跡を訪ねて見た。権現の森の入口の鳥居は高さ三メートル程だが、その石柱には明治九年十一月十七日の刻字がある。又、鳥居の両脇には高さ一.一メートル程の石灯篭があり、その一方に天保二辛卯六月吉日の刻字がある。その西側の灯篭の直ぐ近くには古い二つの石の鳥居の残骸が転がっており、その一つの柱には、享和二壬戌の刻字がある。
さて、そこから北へ向って森の中の登り坂の参道を五十メートル余り行くと、広さ、三百平方メートル余りの境内跡に着く。その西側には文化八年の刻字のある手洗鉢や、明治十四年の刻字のある石灯篭が残っている。風土注進案によると、この境内には各々一間四方の茅や杉皮葺きの神殿と釣屋、更に桁行三間梁行二間の茅葺の舞殿があったとなっている。周囲を深い樹木に囲まれたこの静かな境内に立つと、昔、多くの人々の崇敬を集めていた頃の権現様の様子が色々と想像され、幽玄な境地になって来る。さて、更に、この境内の直ぐ背後の裏山には、琳阿太子を埋葬したとの伝説の残る経塚もある。一方、この権現社跡地から南へ一キロメートル離れた王子の一本松跡近く(農免道路側の国弘緑地の側)の林の側には、文化九年(一八一二)に建てられた王子権現の一の鳥居と呼ばれる高さ三メートル程の石の鳥居が残っている。
※ 追記 王子地区には昭和五十三年に宇部市指定文化財となった王子権現の鰐口が保管されている。その鰐口には「奉施周防白松庄権現宮宝前、応永十六年己丑吉日大願主敬白」と刻んである。
写真:(左)王子権現山入り口 王子権現社の鳥居と灯籠 (右)王子権現社境内
跡に残る灯篭と手洗鉢

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| ふるさと散歩(30) この記事はプチベル新聞第52号に掲載したものです。 |
百万一心の碑
古尾八幡宮の拝殿の西側に「百万一心」の石碑がある。この碑は高さ百二十センチ、最大部幅八十センチ、最大部厚さ三十センチ程の花崗岩製だが、高さ約四十センチの台石に載せられ、更に縁を石組で囲んだ直径約三メートル、高さ一メートル程の土台の上に設置されている。その石碑の正面には字画の一部を欠いて「百万一心(正しくは一日一力一心)」と刻まれ、裏面には「昭和御大典記念」と彫られている。この碑は昭和三年十一月十日の昭和天皇即位式を記念して、東岐波村で建てた物だが、当時山口県内の、特に吉敷郡では同様な碑を全村で建てたと言う。その理由は県庁所在地の山口がその頃吉敷郡に属していたため、当時の県民総結集的気風を示す先駆けの意図も合ったと思われる。この「百万一心」は昭和初期頃の山口県の人口が百九万人余であったため、この県民全員が心を一つにして国事に邁進する意味を強くしたと云う。その風潮を表す例として、昭和十五年の皇紀二千六百年奉祝記念行事の折に、山口県で県民歌詩が募集され、応募六百編の中の佳作詞を萩出身の渡辺世祐が改訂し、防府出身の信時潔の作曲により、発表された山口県民歌の詩の中に次の一節がある。『豊浦の宮の故事しのび、藩祖の訓代々に守りて、百万一心結びも固く、奉公の意気天地に満てり、いざ々仰げ御意徳、永久にかはらぬ御鏡ぞ……。』
さて、この「百万一心」は、もともと、毛利元就に因むもので、元就が安芸国の吉田郡山城を拡張する際に、人柱をたてる話が出たが、城の堅めは人柱をたてるよりも皆で力を合わせる事が大切だと一致団結を説き、「百万一心」と刻んだ石を人柱の代りに姫の丸の礎石として埋めさせたとの伝説がある。この石については、その後、廃城となっていた郡山
城跡で、文化十三年(一八一五)に長州藩士の武田泰信が、長さ六尺、幅二尺の、それらしき石を見つけたと云われる。しかし、その石の行方は定かでない。一方、現在、郡山城跡の南側の麓に毛利元就や一族の墓地があり、その一角に高さ一・八メートル、幅六十センチの百万一心の石碑がある。これは姫の丸に人柱に代えて埋めた石碑の模形と云われるが、その文字は「一日一力一心」と読める。
これまで記述した百万一心の碑の文字は全て、一日一力一心と彫られており、これは「日を一にし、力を一にし、心を一つにする」と云う毛利元就の一致協力の教えを示すと云われている。

写真:古尾八幡宮にある百万一心の碑
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ふるさと散歩(29) この記事はプチベル新聞第51号に掲載したものです。 |
「五反田の古尾稲荷神社跡に残る菅原神社の碑」
波雁山の古尾八幡宮の南側の道を西に向かっていくと、JR宇部線の線路の架橋の下を通り抜けた所の左側に、広さ約二千平方メートルに及ぶ平地がある。その平地の周囲は伊吹や翌檜(あすなろ)、姥目樫等の生垣で囲まれているが、その内部の東側半分は雑草が広がり、西南側一帯は常緑の雑木林となっている。又、その西北の一角には、高さ十五メートル以上もある銀杏の木が一本、聳える様に立っている。ここは五反田地区の北端に位置する所だが、天平勝宝三年(751)よりの鎮座と云う古尾稲荷神社や、江戸中期以前頃祀られたと思われる赤崎神社が明治四十三年まであった場所である。一方、道を挟んで隣接する北側は中須賀地区だが、この付近一帯は明治の中頃から、宇部線が敷設される大正十年頃までは、この古尾稲荷神社、それに続いて古尾八幡宮の奉納競馬場であったと云われている。
さて、私は先日機会があって、この古尾稲荷神社や赤崎神社の跡地に入って見た。東側 から雑草を踏み分けて西南側の雑木林に近づくと、そこには笠木が取れて、貫と二本の柱だけの、高さ二メートルほどの花崗岩の鳥居の残骸が立っており、石柱には明治廿六年発巳九月吉日の刻字があった。更に林の中に入ると、高さ一、二〜三メートル程の花崗岩の灯篭が三基、散立していた。灯柱の表面には刻字らしい物があるが、何(いず)れも風化崩潰して読み取れなかった。しかし、この石灯篭はどれも、江戸時代中期頃建てられた物と思われる。
ふと鬱蒼とした雑木の繁みの中に、高さ一メートル、横幅八〇センチ余りの凝灰岩性の板状石碑が、高さ六〇センチ程の二段重ねの台石の上に据え置かれているのを見つけた。苔むした碑には次の様な文字が刻まれていた。
『菅原神社之碑』 吉敷郡東岐波村古尾の里尓(に)齋き祀る家 菅原乃(の)大神ハ往し明治十年四月巳大神乃(の)御心を近(ちかく)定めて鎮め祭しを同十九年四月 同じ里乃(の)人々相助介(あいたすけ) 拝殿をも新築し、ますます守護を蒙らんと春(す) こゝ尓(に)其由縁をいささか石尓(に)刻(きざみ)長く不朽に伝えんと須(す)
明治二十七年五月十五日 部坂百助斯良 謹誌 この碑文によれば、明治十年にこの場所に何処からか天満宮を勧請して祀り、明治十九年に改めて拝殿を新築したものと思える。従ってこの五反田の古尾稲荷神社の跡地には、明治十年から明治四十三年にかけて、即ち明治四十三年に、それまであった東岐波内の多くの神社のうち丸尾の三神社を除き、その殆どが古尾八幡宮に合祀されるまでは、古尾稲荷神社、赤崎神社と、この菅原神社(天満宮)の三社が祀られていたのである。

写真:菅原神社の碑
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| ふるさと散歩(28) この記事はプチベル新聞第50号に掲載したものです。 |
岐波の白髭社跡
波雁山の古尾八幡宮の東側から岐波地区の街並みの中を通って日の山に向かう唐樋迄の道は、車の多い現在ではかなり狭く感じるが、昔乍らの岐波のメイン通りである。この道を唐樋に向かって行く途中、岐波駅方面への道を左手に見てそのまゝ百五十メートル余り行くと、左手西側に幅広い道がある。その五十メートル程奥(西)の突き当たりに、岐波の人達が通常「明神様」と呼んでいる広さ百六十坪程の平地がある。現在は児童遊園地になっているが、昭和五十年頃までは岐波地区の公会堂や、火の見櫓や消防器庫等があった所でもあり、こゝには明治四十三年迄は、岐波浦の人達の守護神の白髭社があった場所である。
この白髭社については天保年間に著された風土注進案に、祭神は猿田彦命とあり、その建物は全て瓦葺きの、桁行二間、梁行一間半の御殿、桁行八尺、梁行七尺の釣屋、桁行二間半、梁行二間の舞殿があったと記されている。又、この白髭社は別名を松堂社、後には御松堂(おまつどう)とも呼ばれ、その由来はこの白髭社が天福元年(一二三三)以前にあった旧・古尾八幡宮の行宮(あんぐう)であり、その頃から幾本かの松の巨木が境内にあったからだとの事である。一方、白髭社の名は、昔(五百六〜七十年前)度重なる津波の被害に苦しんでいた岐波周辺の人達の前に白髭の老人が現れ、念佛を唱えれば津波から救われると告げ、人々が念佛を唱えた処、それから後は津波の難を免れた。そこで岐波浦周辺の人達が社殿を建て、白髭の老人を三須賀明神と称して祀ったことによると伝えられている。猶、須賀は聖なる砂州を意味し、三須賀とは、岐波浦の沖の須賀、中須賀、花園の上の須賀を示すと言われる。
さて、伝説はともかく、白髭社の祭神の猿田彦命は古来、海人族や農耕漁労族の神とも云われ、従って岐波浦では昔から昭和の初め頃迄、回船業や半農半漁に携わる人が多かった事から、その守護神として崇敬されて来たのは当然と思われる。又、古くから鎮座し霊験顕な神を明神と云うことで、いつの間にか岐波の人達が一般に明神様と呼ぶ様になった事も頷ける。さて、この白髭社は昭和四十三年に古尾八幡宮に合祀され、そこにあった鳥居や灯籠、手洗鉢等は現在の古尾八幡宮の東側参道に移設されている。その中には、猿田彦命に関連してか?猿を象(かたど)った高さ一メートル程の一対の石塔もあり、又、天明三年(一七八三)寄進の刻字のある高さ四十センチ程の花崗岩の手洗鉢もある。猶、一方、現在の白髭社跡地の一角には、海難防止を祈るという、石造の千手観音像を祀った祠と、その側に高さ一.四メートル、幅九十センチ余りの板状の石塔がある。これらの白髭社との関係は明治時代以前の神佛混淆の名残りかとも思われるが、現在の処、はっきりしたことは判らない。
写真:白髭社跡地に残る観音像と石塔
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